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教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。

普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。

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みなさんは、インクルーシブ教育をご存じでしょうか?

インクルーシブ教育システムとは、「人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み」のことを指します。

※文科省HP引用

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm

いわゆる特別支援学級や特別支援学校という制度のない仕組みと考えるものでしょうか。

⚙仕組みが先行しないように

こういった制度を定義付けると、どうしてもその設置を目的化してしまい、とりあえず仕組み設計を先行してしまう時があります。

例えば、ここ数年のICT整備でもその様子が見られたのではないでしょうか。

コロナ禍となりICT整備が進んだはいいものの、それを扱える人が育たず結局のところ飾り物になってしまう。

そんな現状があります。

物が先か人が先かという話もありますが、その根底にある何のためにやるのかといったところを無視して、制度を進めてしまうとお粗末になってしまいます。

では、何のためにインクルーシブ教育が必用なのかを、文科省の文書も踏まえて考えていきましょう。

🗻何のためにの考え方を先行して

この文科省の文書を見てみると気になる点も複数存在します。

まず「自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的」とありますが、そもそも社会が自由であることが前提となっているということです。

つまり。障害のあるないに関わらず、何かを選択するときや行動するときの制約にならないような社会作りがそもそも必要ということでしょうか。

近年バリアフリーなどの工夫は増えてきてはいるものの、そう言った部分に頼りすぎて切る社会風土があるような気もしています。

例えば、目の不自由な方が杖をついて歩いているとき、ついつい私たちは点字ブロックを開けることに意識がいってしまわないでしょうか。

本来であれば「何かお困りのことはありませんか」と一声かけて、助け合うというのが理想な気がします。

そういった風土形成を怠ってはいつまでたっても、制度先行の理想郷になってしまうのではないでしょうか。

だから、本来であれば「人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達」こちら。

これこそが重要視されるべきなのでしょう。

それぞれ互いに理解して尊重しあう。

そのさきにインクルーシブはあるはずです。

💡目指すはフルインクルーシブ教育

近年ではフルインクルーシブ教育という言葉もしばしば耳にします。

これは障害のあるなし関わらず全ての子どもが同じ場所で一緒に学ぶスタイルの教育のことです。

そうなるとどうしても、支援体制などに不安を覚える人も出てくるでしょう。

私自身がそのクラスの担任となったとしても、少し不安は残ります。

つまり、フルインクルーシブ教育も同じで、ただ一緒に学ぶということを目的にするのではなくて、なんのためにフルインクルーシブ教育としての環境を作るのかといったところでしょう。

社会に出れば、皆同じくともに生きていきます。

そんな社会を考えた時に、その前段階である学校自体がその体裁を持つのは大事なことなのではないでしょうか。

私自身も身体の不自由な友人が小学生の頃に2人いました。

不自由というのもおかしいのかもしれません。

時には、助け合い時には真剣に勝負をし、というふうに何一つ違和感など感じずに、ツーカーで過ごしていました。

あのときの環境こそが、今の社会、学校にも求められているのかなと思っています。