私は高校で先生をしていますが、授業をしていると生徒からこのように話しかけられることが多々あります。
「先生、トイレに行っていいですか?」
皆さんはこの言葉に対してどのような考えを持ちますか?
「授業中だからダメだろ」
「なぜ、休み時間に行っとかないんだ?」
「トイレに行ってると授業に遅れてしまうだろ」
いろいろな意見があると思います。
私はいつもこう考えます。
「教育の敗北だ…」
自分の中の小さな違和感を見逃さない
私は学生時代、お腹を壊しやすく授業中にトイレに行くことがよくありました。
私が小中学生の頃は、授業中にトイレに行くとなるとそこそこの覚悟を迫られ、恥ずかしい思いをして駆け込んだ記憶があります。
トイレに行くのをためらって、万が一、授業が終わるまで我慢できずに…ていうことになると、学校に行きたくなくなるくらいのトラウマが残ったことでしょう。
現在の学校では恥ずかしいという思いをすることなく、生徒が気軽に言えるようになってきているようです。良い世の中になりました。
話しを戻して、なぜ敗北を感じるのか。
もし間に合わなかったら大変なトラウマを背負うことになるのに、その判断を他人に委ねているからです。
もし先生である私が「ダメ」と言ったらその生徒はどうするのでしょう?本当に行かないのでしょうか?
ここには主体性の欠片もありません。あるのは、他人任せ。
しかし、生徒はこうなってしまったのには理由があります。そう教えられたから。そう教育されたからです。生徒は何も悪くありません。
「主体的・対話的で深い学び」が導入されしばらく立ちますが、トイレに行ってよいかの判断も自分で下せない状況にあるということです。
「トイレに行ってもいいですか?」
先生の日常に普通に転がっている言葉。私は、ここから小さな違和感を感じ、この違和感の正体を探り、自問自答し、自らの答えを導き出しました。
「先生、トイレに行ってきます。」と言える生徒を育てよう。
ちなみに、トイレに行かせないことは体罰になります。
先生と生徒の信頼関係
「トイレに行ってきます。」にすると懸念されるのが、それでサボろうとする生徒が出てくるんじゃないかということ。
ここは生徒を信頼するしかありません。どっちみち、許可制にしたところでトイレに行かせないと体罰です。行かせるしかないのであれば信頼しましょう。
また、サボろうとしている生徒がいるのであれば、授業満足度が低いのが原因である可能性もあります。
実際に、私の授業で満足度の高いときはトイレに行く生徒は少ないように感じます。
もしかすると、トイレの回数は授業満足度の指標になるかもしれませんね。
授業のプロとして満足度の高いものを提供できていれば、サボろうとする生徒は減り、生徒は先生を信頼していくはずです。
授業の中で培った信頼関係の中で、「行っていいですか?」から「行ってきます。」へ、他人任せから主体性へと生徒が育っていってくれたら最高ですね。
日常生活に転がっている小さな違和感を大切に、みなさんと共有し、対話できるような場をこれからも作っていきたいと思います。