こんばんは!
教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。
普段は私立の中高教員をしており、毎日ブログを書いております。
よろしければ、ご覧ください。
みなさんは、子供の頃に授業に対してどのような印象をお持ちでしたか?
私にとって授業とは先生との出会いの場でした。
この科目苦手だな、得意だなという意気込みのようなものはありましたが、そこよりもあの科目はあの先生だという期待や不安の方が大きかったのを今でも覚えています。
今日はそんな授業に対しての、学びに対しての意識について考えていきます。
✏️やらされるからつまらない
まず、授業や学びに対しての姿勢として最も先に出てくるのは、つまらないとか退屈、苦痛といった言葉ではないでしょうか。
私自身も好きな体育の授業はそう感じていたのかもしれません。
むしろ、体育のために他の授業をなんとか楽しく過ごそうと努力していました。
では、なぜ、児童生徒は授業や学びに対してこう感じてしまうのでしょうか。
その理由の一つに詰め込み型授業があると考えています。
どうしても子どもたちは幼い頃から、学びを強要される場面を過ごしてしまいます。
これを切り抜けて、学びとは自発的で楽しいものという視点だけで物事を見られるのは稀かと思います。
全てが全てそういうわけではないのでしょうが、少なくともそういった心持ちはあるのが事実です。
つまりやる気のない児童生徒は、児童生徒が悪いのではなくて子どもに関わる大人がもっと創意工夫をしていくべきなのでしょう。
👨🏫どんな授業を望みますか?
時々授業アンケートでこんな質問が出てきます。
「あなたはどんな授業を望みますか?」
この質問の仕方も仕方だと思うのですが、こういった質問を投げると必ずといっていいほど帰ってくる返答がこちら。
「つまらなくない授業」
「退屈でない授業」
「おもしろい授業」
言いたいこともわかります。
それに、語彙の少なさからくる稚拙な伝達であろうことも重々承知しますが、私はここに子どもの学習観が出ると思うのです。
この答えから想像するに、児童生徒は自分達が授業を作り上げるという認識がないのです。
どんな学びでも自分次第で面白くできるはずなのに、その観点がない。
そこが残念に感じます。
大人がそういった視点を教えてないというだけかもしれませんが、互いにここが見えない状態ではそんなふうにつまらないと感じても無理はありません。
🎓場所が学校なだけ
究極言えば、勉強も学びもどこでもできるものなのです。
現に私もオンラインコミュニティに所属し、地方さまざまな人と一緒に、さまざまな場所にいる人から学ばせてもらう機会が多々あります。
そこにあるのは自分の知りたい学びたいという欲求だけ。
ともすれば、その場所を定めている学校という場所の役割はなんなのでしょうか。
私はこういった学習観をより良くしていくのが役目だと感じています。
良くはしなくとも、いまの自分の学びに対する姿勢に気づいて、それでいいのかと内省し考え続ける。
そしてそれらを同年代の奇跡的にも一緒になれた友と高め合う。
これこそが学校のある意味。
そんな学びの場を作るために、我々大人のすべきことは一体なんなのでしょうか。