こんばんは!

教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。

普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。

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近年ジェンダーや男女差別といった言葉をよく耳にします。

特に性自認については、成長し切った大人になった後よりも青年期にあることが多いので、学校現場においてもセンシティブになりやすい部分です。

今日はそんなジェンダーと学校、教育について考えていきます。

👫どこまで考える?

学校現場でジェンダーについてはどこまで配慮が必要なのでしょうか。

例えば、海外においては男子トイレ女子トイレという2つに分かれたものがなくなっているところもあります。

映画なんかでも当たり前のように男女共同で利用しています。

文化的な差もあるので急には一緒にはできないかもしれませんし、それがベストではないかもしれないのですが、考えるべき一つであると思います。

それに加えて保険調査票などの欄にある男女のマーク。

あれも学校によっては廃止しているところも出てきています。

ああいった男子、女子という分け方を意識をさせないような配慮は確かに必要だと思います。

しかし、時にそれを前提として設定している場面も多くあります。

行事において体育祭はその体格差により男女によって種目を分けるのがほとんどです。

体験学習などにおいても指導のために男女別フロアなどにします。

このように男女という括りをベースにしているところもその必要性と配慮について考えなくてはならないのでしょうか?

🏢多様性の時代に

多様性という言葉をよく耳にします。

みんな違ってみんないいとか十人十色とか。

この性自認についても多様性の一部なのかもしれません。

ある論文によれば性自認が完全に男性のみや女性のみというのは3割程度しかいないといったようなことが記載されています。

性のあり方は誰もが異なり、そこに差異はあっても優劣はないのでしょう。

私自身、いまだにその認識が甘い時が多々あります。

子どもたちの中にもその甘さが見える時があります。

しかしそれはこれまでの人生の中であまり経験してこなかったからこそ、出てきてしまう無意識の甘さです。

大切なのはその無意識の中にも、多様性を認める、多様性を当たり前と認識できる環境作りなのかもしれません。

👨‍👩‍👧‍👦子どもよりも大人?

もしかしたら、意外と子どもたちの方がこういった多様性を認める力というのは十分に備わっているのかもしれません。

以前であれば、誰かと違う、ちょっと変といった時に、その相手に対していじめのようなことが発生することが多くありました。

しかし、今の時代、なかなかそう言ったいじめは聞きません。

むしろ、それが当たり前といった具合に認める認めないの話すら??といった感じの子どもが増えているように感じます。

子どもたちに対してジェンダー教育がどうのこうのと私たち教員や大人は話してしまいますが、大人の我々こそこんな話をしているくらいなのですから考えなくてはならないのかもしれません。

また、海外ではこういったジェンダー教育がむしろ、子どもたちの共感力に対して悪い影響を与えているというデータもあるようです。

まだ男と女という生物学的にも差が分からないうちからLGBTQといった多様な価値観を提示することが、かえって混乱をさせているというもの。

さまざまな考え方がありますが、意識しつつも私たちの住む社会にとって何がベターなのかを模索する必要がありますね。