塩畑(ソルティー)です。T-KNITの代表理事、社会教育士として活躍しています。(社会教育士の日常はこちらから見れます)

最近、若手教員の情報交換会に参加する機会がありました。夏休み終了直前だったこともあり、不安のほうが大きいような内容でした。

ですが、それぞれが不安に思っていることや、モヤモヤしていることを吐き出していくと、「こう考えればよかったのか」と心が軽くなったようで、良かったな〜と感じます。

さて、その情報交換会でとても気になったワードがあります。

それは「学校にさえ来てくれれば…」という言葉です。

学校の先生だからこそ、学校が中心になるのはしょうがないですが、このワードには先生たちに一言アドバイスを言ったので、今回はその考え方などをお伝えしていきたいと思います。

「学校にさえ来て(行って)くれれば…」は危険

学校と子供という関係になってしまうと「学校にさえ来て(行って)くれれば良いという言葉を言われることがあります。

先生は「将来が心配だなぁ」と思っているようで、ハードルを下げて「学力なんか気にしなくてもイイヨ!」的な意味で、「学校にさえ来てくれれば…」という言葉で落ち着く感じになってました。

しかし、これは子供にとってハードルが高すぎると感じています。

学校の先生の気持ちを踏みにじるわけでもなく、仕事のやり方を否定しているわけではないのですが、不登校が増えている背景にはこの気持ちが影響しているのではないかと感じることが多々あるのです。

不登校児の親として

我が家には5人の子供がいます。

その中でなんと3人も不登校でした。しかも、理由が3人とも違います。

  1. 学校に行く理由がわからない
  2. 勉強がついていけない。
  3. 先生が怖い、クラスが怖い。なんだかわからないけど行けない

もちろん、最初は親が子どもの将来を勝手に案じて、「行こうよ」とそこそこ無理やり連れ出したこともありました。

ですが、そのようにした結果、なんと家出をしたのです。つまり、子供にとって家は安心できる場所じゃなくなったと少なからず感じたのかもしれないと大いに反省しました。

そこから僕の家庭では、『学校にさえ行くのも辛いなら、学校にも行かなくて良い』というスタンスになりました。

結局、将来を周りが気にしたところで、人生の責任をとるのは本人です。人生を交代してあげることはできません。

なので、「生きててくれればそれで良い」という心構えで接するように変わりました。

長男は家でパソコンばかりやっていましたが、逆にパソコンのスキルや、興味関心が大きく伸び、今ではゲームを作ったりしています。

最近では、高校入試があったので、家族で話し合い。もちろん、親のエゴを押し付けるのではなく、「現実はこのようになっているけど、お前はどうする?」という選ばせるようにしました。

長男は小学校6年から中3までの期間が不登校でしたが、結局、自分で道を高校を選び、今では通信制の高校に入って、朝は自分から起き、レポートを真面目に提出し、100点を取っているようです。

そこに学校の先生の姿はありません。もちろん、その姿を見ることはできませんでしたが、結果的に復活しました。これが正しいかはわかりませんし、誰にでも当てはまるわけではないと思います。

ですが、絶対に前よりは良くなっていますし、何よりも本人の意思でちゃんと進んでいると自分も周りも感じられているのがわかります。

誰かが手を引っ張ったわけではなく、ちょっとした声かけと背中を押すだけでも人は変われるんだと実感しています。

そういう点でも、先生たちに伝えたいのは「学校にさえ来てくれれば…はハードルが高すぎます。もっとゆるくていいですよ。」ということです。

学力や、学校に来たかどうかではなく、子供が幸せかどうかを気にする世の中へ

「学校にさえ来て(行って)くれれば良い」という言葉をどうして言わなくてはならないのか?

その背景にあるものは、県への提出などが大きな影響をしているでしょう。

学校では、欠席者の人数や、不登校児の人数を把握し、報告をしています。なるべく不登校ということにしたくないので、今では学校にほとんど出ていなくても、放課後にチラッと顔を見せただけでも出席扱いにする学校も多いと思います。

でも、そうやって大人の都合で子供を振り回してしまっていないか?はいつも気をつけたいものです。

「これって変だよね?」と思っても学校は簡単に仕組みを変えられません。一担任が、一地域住民が、一保護者が声をあげたところでほとんど学校の仕組みは変わらないでしょう。

ですが、「本当にこれで良いのかな?」とアンテナを高くもち、気づこうとすることはできます。

また、地域も不登校だからと言って騒いだり、焦ったりすると逆効果になってしまうこともあるんだと。

義務教育の義務は『教育』の義務であり、『学校に行かなくては(行かせなくては)ならない』義務ではありません。

学校で学べないなら、社会で。

社会でだめなら、家庭で。

学びは世の中にたくさん転がっていて、なんにでも学びに繋がるのです。

地域は学校の先生に対して目くじらを立てることをせずとも、子供が育つ環境を地域で作る努力をし、

学校の先生は余裕のないクラス運営や、学校教育活動をしなくても良い。

結果的にそれが子供にとって本当に良いことなんだなぁと思っています。