自分のすごいを子どもに伝えていますか?
褒めるって良いことって聞きますが、褒めればいいと思っている方も多くいます。
今回は子どもとの触れ合いの中で欠かせない『褒める』について話していきます。
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今回のパーソナリティーはrinrinです。
『はじめての学級で大事にしたいこと』をお伝えします。
ラジオのURLを置いておきます。
「学級を持つってどんな感じだろう?」って
考えながら聞いてみてくださいね。
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褒めるってなんだろう?
僕は中学校の時、不登校でした。
いや、正確には登校はしていましたが、相談室通いでした。
それは記憶がなくなってしまったから…という理由もありましたが、僕からは知らない人が多くなって、相手は自分を知っているという状態が怖く、話しかけられないというものでした。
その時、担任の先生もよく心配して僕のところに来てくれました。
「今日は何をやっていたの?」
「朝起きて、相談室に行きました。」
「そうなんだ!すごいね!勉強はやった?」
「いえ…、勉強はしていません。ボーッとしていました」
「そうなんだ。じゃあ、次回からは相談室に行って、教科書を開いて勉強するようにしてみようね」
そんなやり取りをしていました。
でも、僕は勉強する努力はするものの、まったく身が入りません。
この勉強が分からないのもありますが、この勉強が何のためになるのか?が分からないからです。
でも、代わりに勝手に勉強していたものはありました。
自分の部屋の中に父が集めたと思われる百科事典があったのです。
「あ」の行だけで、300ページはあろうかと思われる書が「わ」「を」「ん」まで並んでいたのです。
僕は失った記憶を取り戻すかのように読みふけり、いろんな言葉を覚えていきました。
それを相談室の先生に話すと
「へー、君はそんな難しい本を読んでるんだね。すごい!」
「でも、学校にとってはどうでも良いことなんですよね」
「そうかもしれないね。でも、そうやって自分の興味を広げていくのがすごいと思うな〜。だったら、こういう本はどう?」
相談室の中には哲学書もあったのです。
「人はなぜ生きるのか?」
「人はなぜ楽しいと思うのか?」
そんな問いがたくさん書いてあった本です。相談室の先生はそれを勧めてくれました。
「これは面白いかもしれないです。」
「すごいすごい。うん、だったら読んでみて。今の君に必要なことが書かれているかもしれない。」
どちらも褒めるというテクニックを使っていましたが…
僕は相談室の先生のほうが自分を認めてくれた気がしました。
同じ褒めるなのに、この違いは一体どこから生まれたのか…?
相手の気持ちに寄り添う
大人になってから、この2つを対比して考えたことがありました。
同じ褒めるでも、コントロールしようとしたのが担任の先生の手法でした。
コントロールしようと思う気持ちは子どもはかなり敏感で見透かされてしまっていると思います。
この気持ちは自分の子どもを見ていてもそうですが、自我が生まれた3歳くらいから見透かしているなと感じることも多いです。
「なんでなんで?」
「嫌!ヤダ!」
こういう言葉を使うようになってから、相手の思い通りになりたくない!という気持ちが出てくるのかなって思います。
ある意味、自立しようとする気持ちの表れ。
そんな時、相談室の先生の褒めるは相手の気持ちを拡大する手法でした。
自分のやってきたことを褒めつつ、今、やろうとしていることの先を見据えて、次のステージにいくための最適な踏み台をそっと置いておいてくれた。
それは先生の『愛』そのものだったと感じます。
教科書をやっていても、辞書を読んでも、哲学をやっていても、学校に来ても、来なくても
僕が僕自身で良いんだよって認めてくれていたと感じる接し方だったなと振り返ると思います。
それでは今日もお疲れ様でした。
では、また。
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