こんばんは。

教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。

普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。

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入試関連のゴタゴタでいつものメルマガ配信の時間に間に合わず翌日になってしまいました。

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今日は教員の質と研鑽について考えていきます。

さて、教員の質と研鑽について考える前に、教員の仕事量について考えたいと思います。

教員の仕事は多岐に渡ります。

まずはほとんど毎日ある授業、校務分掌ごとにある会議、生徒対応、保護者対応、教科としての仕事、校務分掌の仕事、行事の準備、学級経営、、、。

挙げればおそらくキリがないでしょう。

おそらく1週間くらいは缶詰になったとしても無理やり頑張れば仕事を探し続けて何かしらをできると思います。

それほどまでに終わりが見えづらく、そして見つけようと思えばどこまでも仕事を見つけられてしまうのが教職という職業なのです。

行ってしまえば教員の業務量は無限そのもの、やってもやっても目処が立ちにくいものです。

なので、教員の仕事はいかに量をこなすかというよりも、いかに終わりどころを自分で見つけられるか、そしてかたをつけられるかの個人の判断力にかかっていると私は思います。

さて、そんな教員の仕事ですが、やろうと思えばどこまでもやれてしまうので「時間がない」という負の状態に陥ってしまいます。

実際問題手際よく計画的に、そしてどこかで妥協をするという決断をすればそこまで教員という職業は大変ではないはずなのです。

要は、教育者として、教える人としてのプライドをどこまで捨てられるかになるような気もします。

これを言えば教員失格と言われてもおかしくもないのかも知れませんが、ただ実際のところ小中高で教えている内容は授業法こそ切り詰められはするものの、教科性を深くまで追求すればどこまでも追及できてしまいます。

それを最下端まで掘り下げたところで興味関心を持ち続け、理解ができる子が何人いるのか。

つまり、このバランスが最も重要になってくるのです。

だからこそ、個人の裁量に任されます。

では、ある程度この自分の中での判断力の規定が定まっている人と定まっていない人、両者に1時間あたり自由に使える時間を1時間与えたとしたらどう使うでしょうか?

「ここまでにしよう」と決めている人は、時間を追加でもらったとしても多くの場合、それをそのまま授業準備を進めることには使わず、他の研鑽や自分の趣味などに使うのではないでしょうか。

一方、どこまでもやってしまう人はこの時間があろうとなかろうと、時間めいいっぱい最後までやり抜くのです。

そう考えると、ただ闇雲に教員の時間を作ろうとする施策もどこか疑問を感じてしまうところもあります。

教員免許の更新のための研修がなくなりました。

現場ではこれを喜ぶ声が多くあります。

実費で受けないといけないのに加え、自分自身の時間を使うのだから当然と言えば当然なのかも知れません。

とは言っても、ある程度の教員の質を担保するには必要なものでもあったのではないかなと私は思うのです。

確かに、この免許更新制度をなくしたことで、これまで教員免許を取得した人が失効せずにいつでも教員として迎え入れられるというのは、一つ教員不足解消のための策としてはいいのかも知れません。

ただ、それは目先の対策でしかなく、いずれこれが大きな問題となって教育に帰ってくるようにも感じます。

本当に教員不足を解消したいのなら、教員という職の博をもっと高めて避けられる職ではなく、なりたいと思わせる職にするしかないのではないかと思います。