こんばんは!
教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。
普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。
よろしければ、ご覧ください。
みなさんは、北欧教育をご存じでしょうか?
特にここ数年間教育界でもずっととりあげられているフィンランドの教育。
フィンランドの教育の魅力 現地の教員アシスタントと高校生が講演
私も人生の中で一度は行ってみたいと思っていますが、なかなか行ける目処がたてていません。幸福度の高い国でもあるフィンランドは、教育が充実しているとさまざまなメディアで触れられています。
そんなフィンランドでの教育と指導法について考えます。
🎓大人、先生の役割とは?
とことん関わらない大人や教員の存在。
数年前から教職員研修とかでも、「授業で話す時間を7分以内にしている」みたいなことを言う先生とかもいました。
中身をみてみれば、生徒の自主的活動を促してそれを教員や大人が邪魔しないと言うスタイルを理想として掲げているのでしょう。
でもこれ、口で言うのは簡単ですが、日本では非常に難しい土壌作りが必要になると思います。
例えば、1日の中で1時間しかそう言うことをする先生がいなければ、そんな土壌は出来上がっていかないので、なかなか生徒にも自主性は身についていきません。
たとえ、身について行ったとしても、ひたすらゲームに没頭しているような子にどのように対応すればいいのか。
私だったら少し悩んでしまいます。
それすらも学びの一部であることは分かりますが、どうしてもその子の未来といま何をすべきなのかと言うことを話してしまいたくなる衝動に駆られます。
こう言った先生の中に潜んでいる文化のようなものすらも取っ払う必要があるのでしょう。
👦👧教育の対象者による教育哲学
記事によれば、学校の対話の授業の中で話しているテーマに「教育について」と言うものがありました。
教育の対象である児童や生徒が実際に自分の受けている教育というものについて話し合う。
とても異様な光景に見えますが、実は当たり前のことなのかもしれません。
私たちが何かのサービスを受ける時、例えばジムなんかに入会する時には、必ずと言っていいほど多くの説明を受けて入会するはずです。
入会した後も、自分のライフスタイルと比較する中で必要性を考えていくわけです。
しかしこと日本においては、また子どもにとってはそう言うことをする機会が全くと言っていいほどありません。
我々大人の受けてきた教育を踏襲したものを子どもたちに提供することになんの疑問も抱かずに毎日を過ごしています。
おそらくこう言った現状自体に問題があり、受動的な子どもを生んでしまうのでしょう。
自分で受ける教育を自分たちで考える。
💡それも一つの主体性か?
ゲームをしている子はさせっぱなし、読書をしている子もさせっぱなし。
それでも、それも子どもたちの”やりたいこと”であるから、そのままにしておく。
これは主体性と呼べるのでしょうか?
確かにそれを突き詰めて、自分の職業にまで発展させられるような子もいると思います。
しかし、多くの場合光や音、ゲームといった刺激物は中毒性が高いが故に、ゲーム依存といった言葉まで生まれるほどのものになってしまっています。
大人であればある程度自制が効く中でそれらと関わることができますが、子どものうちは難しいのではないでしょうか。
そうなると、そういった望ましくない中毒性を生み出さないためにもある程度の教員の介入は必要な気もします。
あくまでもこの記事をそのまんま読み取ると、こんな解釈になってしまいますが、本当の主体性とは一体どのようにして生まれていくのか改めて考えさせられます。