こんばんは。

教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。

普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。

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総合的な探究の時間が高等学校に導入されてから3年目。

高等学校在学中の生徒は実質全員が探究をしてきていることになります。

この高校生たちが大学で、そして社会でどのように活躍してくのかで今回の指導要領の評価が決まるでしょう。

私の勤務している学校は週の中に探究という授業は設置せず、各授業の中で設置していくという措置を取りました。

皆さんの学校はどうでしょうか?

私の役職的にさまざまな学校の先生方と話をさせてもらえる機会が多いのですが、探究の時間の使い方は本当にそれぞれ。

その学校の地域性を大事にして、地域学習から入り自分の将来像を模索していくような探究。

海外とのつながりを調べてグローバル社会を視点に学んでいく探究。

全くもってテーマを設定せずに自分のやりたい学びをとことん追求していくようなアカデミックな探究。

大体がもともと各学校で持っていた独自のプログラムを週に一度の形にうまく改変して学習につなげていっているような印象を受けました。

つまり逆に言うと、もともと特筆すべきプログラムを持っていないような学校にとっては、この総合的な探究の時間というのは”苦痛”と感じてしまう人も多くいるということです。

現に私の学校では、今のカリキュラムに加えてもう一コマ授業が増えるのに加えてゼロからプログラムを組まなければいけないという苦境に耐えられず、特殊な置き方をしました。

ちなみにほかに同じように週に一度の探究ではなく、まとまって行っているという例は見たことがまだありません(笑)。

このように総合的な探究の時間という授業名は一緒でも中身は全くもって学校ごとになっています。

各学校の総合的な探究の時間の担当者に話を聞くとその学校の事情がよく分かります。

担当者を各学年に設置はしていても、主となる人物が中心となって探究の時間を構築しているパターンが多いようです。

ひとつの授業計画を年単位でそれなりに自由に、それも1年、2年と構築できるのですからとても楽しそうな感じもするのですが、それだけでもないようです。

確かに、ほとんどの先生が最初はワクワクとプログラムを考えて実行しているのですが、決行属人的になってしまっているところも多いようです。

「この人がいなければ」がいろんな学校で起こっており、そもそもの総合的な探究の時間がどうして設置されているのか、どうしてこの時間が必用なのか、どんな風に育てていけるのかといった大枠の部分が抜けているために起きている現象だと思います。

学年で統一して行うとは言え、学級担任もそれなりに関わっていく時間が生まれます。

そうなると結局のところそれぞれの担任陣の力量によって中身が変わってしまっているという心配性も生まれてしまうわけです。

そもそも探究にゴールはありません。

探究のプロセスは文科省の資料なんかでよく出てきますし、学校ごとに明確なゴールを設定している場合もあります。

しかし、別にそこがゴールになっているわけではなく、あくまでもきっかけの一つに過ぎないのです。

その探究のサイクルを回す中で自分の学習方法を見つけ、模索し進んでいく。

その第一歩が総合的な探究の時間なわけです。

正直言うと担当者からすると少し物足りなさも感じるのかもしれません。

いつも何か子どもたちの目に見える変化があるわけでもなく、毎年同じように終わっていくわけですから。

せっかく探究の時間をプロデュースしているわけですから、それをもっとよくしたいと思うのは当たり前。

探究を考えている先生こそ探究を探究しているわけです。