こんばんは。

教員支援ネットワーク T-KNITのいがぐりです。

普段は私立の中高教員をしており、個人でもブログを書いております。

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ドリハラという言葉を聞いたことがありますでしょうか?

ドリームハラスメント、略してドリハラ。

要は夢を持つことへの強要というものでしょう。

今日はこのドリハラについて考えていきます。

夢を持つことがまるで悪いことのように聞こえてしまうこのドリハラという言葉。

果たして夢を持つことを強要するのは、ハラスメントにあたるのでしょうか?

ハラスメントとまではいかなくても、それに対して苦しさを覚える人がいるということでしょうか。

「夢を持ちなさい」という言葉は教員や大人が子どもへ向けて発するアドバイスのようなものとして、ドラマとか映画とかでもたまに見ることがあるような気がします。

果たしてこんな言葉も子どもたちにとっては苦痛に感じる局面があるということなのでしょうか。

確かに私自身進路指導をしている中で、進路が決まっていないこと面談をするのは結構苦しく感じることがあります。

進路が決まっていなくても選択授業を選ぶまでには期限があるわけで、明確な目標を持っていない早い段階からある程度選択を強要していかなければならないわけです。

目標も何も決まっていない子に、それでも、いついつまでに決めてねというのは、なんだか強引かつその子の将来の選択肢を狭めている気がしてならないのです。

しかし、いつまでも自分の進路を決めずに働かずに生きていくといくということは、少なくとも日本ではできません。

衣食住を整えるために、生きていくためには着るための洋服を買って、食事を摂って、住む場所がなければ安定した生活はありません。

言ってしまえば、生きるためには働かなければなりません。

そうなったとき、子どもたちに働くということをどのように説明するでしょうか。

「あなたたちは生きるために働かなければなりません。」というのは、何となく先ほどの心苦しい進路指導にも似ています。

しかし、働くという本質はそうではない気がするのです。

働くは傍を楽にするという意味があります。

つまり、近くの人や誰かのために貢献して奉仕して、互いによりよい社会を目指すための動詞なわけです。

生きるために働くのではなく、生きているから働く、働いているから生きているという自分の志を体現できるための行いなのではないでしょうか。

当然、誰もかれもがそんな素敵な職業を選べるとは限りませんが、そんな風に思って働けたら幸せではないでしょうか?

極論いうと、将来について考える子どもの時間が短いのだと思います。

確かにキャリア教育と称して、「将来について考えよう」という時間は設けてもらえることもありますが、その中だけの話です。

子どもたちは学校で多くの経験をしますが、出会える大人は「教員」と「それ以外」というぐらい人のめぐりあわせはほとんどありません。

そんな中で将来について決めろという方がもしかしたら無理があるのかもしれません。

では、学校は何のためにあるのでしょうか。

子どもたちが自分の志を見つけ、働くという意味とやりがいを感じられるだけの時間と機会はいったいどこで誰が提供することができるのでしょうか。

学校の仕組み自体にドリハラという言葉を生んでしまう土壌があるのかもしれません。