自分の人生の中でもとてつもなく大きな手離しをしました。
今振り返ってみると、私が教員になりたい理由の一つにはテニスが入っていました。
➀科学を探究できる
➁人に教えることができる
➂テニスと関わりがある
この3つの条件を満たしてくれる場所を探して教員になったのに、そのうちの一つを自分から手放しました。
理由を挙げれば、たくさんあります。
時間が欲しい、教育方針が合わない、競技者でありたいなどです。
じゃあ、なぜもっと早くそれをしなかったのか。
無意識的に私は、もう一人の顧問の先生に対して学生時代からずっと引きずっていた恐怖心を抱いていましたし、これは変えることもできないし、変える必要のないもの、そう思い込んでいたんです。
学生時代の自分
学生時代はその顧問の先生は、直接の顧問ではなくて、女子テニス部の顧問でした。
ですが、男子の方にもたまに口出しをし、それがとても高圧的でマウントを取ってくるタイプだったのを、今でも覚えています。
しかし、自分のお気に入りにはとことん褒める。そんな先生という印象でした。
今振り返って考えてみれば、自分も褒められたかったんだろうな~と冷静に思い返せます。
正直にいって苦手とかではなくただ生理的に嫌いでした。
教員になると、、、。
卒業して教員になってからは、特に接点もなかったのでそこまで何か感じることもありませんでした。
私は1年目は全くやってきた競技とは関係のない、毎日練習するような部活に入っていたのですが、2年目になるタイミングで音を上げました。
それを拾ってくれたというか、抜き取ってくれたのがその顧問の先生です。
おそらく自分の中では、そのときの恩が1番の足枷せになっていたのかもしれません。
テニス部になって自分の専門競技になったのはいいものの、毎日のように練習はあり、年に休みは数回。
次第に疲弊して、自分の好きな授業研究などもできないほどに余裕がなくなりました。
でも、それが当たり前で、変える必要もないと思っていたんです。
きっかけになったのは
「部活との関わり方を改めたい。」
そう言いだそうと決心できたのは、そして、そもそも部活が負担であると気付けたのは、間違いなくティーチャーズアソシアでの出会い、そしてエネルギーワークとの出会いです。
加えて、そこからのつながりで生まれたセッションや、ガイドゲームで背中を押してもらえたからです。
Hさんとのセッションでは、Hさんが、もともと私とほとんど同じ境遇であったことをお聞きして、言葉の一つ一つが深く胸に刺さりました。
特に過去世の話で、父方の祖父の生き方と自分がリンクしていることを話してくださり、より勇気をもらえました。
その顧問の先生に、話をしようと決めた昨日の朝のガイドゲームでは、やはり、対話が大切なこと。
そして、足し算の感覚、引き算の感覚。
引き算は引き出すこと→自分が一番際立たせたいものを引き出す。
自分の価値観を伝える。
という言葉を先ほどとは別のHさんよりいただきました。
これらがすべてメモしてあるノート、顧問の先生と話すときにしっかりと持っていきました(笑)。
応援してくれているような気がしたので!
果たして話し合いの結果は
そして、その顧問の先生からの返答は
「先生の夢や希望を邪魔したり、遅くしたりする権利はないので、ぜひ夢に向かって頑張ってほしい。」
と言ってもらえました。
「あ~、自分は何でこんなにも親身になって聞いてくれる人なのに、拒絶反応を示していたのだろう?」
と嫌悪感に似たものも若干感じました。
でも、この言葉も、たくさんの言葉に支えられて放った自分の言葉だからこそ、そういう返答を頂けたのかなと思います。
その後はポンポンと話が進み、今自分が教育系でやっていることをお話しさせてもらったり、夢を話させてもらったり、今後の部活動との関わり方を話したりしました。
最終的には、今サブ顧問で会計をしてくれている顧問の先生のポジションにつく形で、話はまとまりました。
話をしてみて
なんだかすっきりしているような、モヤモヤしているような、よく分からない感覚でした。常にふわふわしているような。
でも、自分の中では今後の人生に大きくかかわる、重要な手離しの1つだったなと感じています。
誰かと話をするとき私たちは自然と、自分の発言に対して相手がどう考えるのか、どう感じるのかを考えてしまいます。
それが決して悪いことではあるとは言えませんが、それにより自分の行動が制限されてやりたいこともやれない、言いたいことも言えなくなってしまうことがあります。
相手がどう感じているのかを考えることはできても、変えることはできません。
自分自身がどのように感じるのか、どう生きたいのか、そこにコミュニケーションの本質があるのだと思っています。
人と人との関わりについて、深く学べた体験でした。